外国語学部 国際文化交流学科
上原 雅文 教授
Uehara Masafumi

研究分野 倫理学、日本倫理思想史

生年/1958年
血液型/B型
出身地/鳥取県
家族構成/妻、子供二人(一姫二太郎)
趣味/読書、星を見ること
子供の頃の夢/天文学者
愛読書/諸星大二郎・畑中純のマンガ、日本古典全般
休日の過ごし方/マンガ・小説などの乱読。研究(これも趣味のひとつです)。なかなか時間がありませんが、深山幽谷の寺社探訪(聖地巡礼)が一番したいことです
好きな映画/タルコフスキー監督の「ノスタルジア」「サクリファイス」など
好きな音楽/吉田拓郎
好きな食べ物/極上の純米吟醸酒に、大根とブリのあら煮

外国語学部 国際文化交流学科 上原雅文 教授

外来思想を独自のやり方で取り入れてきた日本人の智恵。
それは現代を生きる我々にとっても大きな力になる。

過去の思想は、我々のなかに知らず知らず生きている

皆さん、神社などでしめ縄がしてある大きな岩を見かけたことがあると思います。我々はなぜそうしているのかという意味は知らなくても、その光景を不思議とは思わず暮らしています。しかも、ゴミの不法投棄が多い場所にしめ縄をした大きな岩を置くと、ゴミが捨てられなくなったりもするのです。古代に見られる信仰の名残は、実はさまざまな形で現代社会のなかにも残っています。映画「となりのトトロ」に登場するトトロの棲家は森の中にある巨木で、そこにはしめ縄がかけられ、祠が祀ってあります。これは巨木や形の良い山や滝などに神の力が集中的に宿っていると考える神道の考え方が、自然な形で映像化されている例ですね。また「千と千尋の神隠し」に登場するお湯屋が神様たちのお風呂だということは、我々日本人はまったく違和感なく受け入れられますが、西洋人からは理解されません。キリスト教文化圏の人たちから見ると、あそこで描かれている八百万の神というのは妖怪にしか思えないわけです。

このように過去の思想というものは、現代を生きる我々のなかにも無意識のうちに色濃く反映されているのです。よく日本人は無宗教だといいますが、むしろ宗教が身近すぎるところに薄く広く定着している、といえるのではないかと私は思っています。

私が担当している「日本思想史」では、主に近世までの神道、仏教、武士道について学びます。ただし、それらを単なる歴史の話としてではなく、過去の思想が現代の日本人の考え方に影響を及ぼしていることを自覚し、そのうえで日本文化、さらには自分自身をより深く知ることにつながるような講義をしていきます。

「一蓮托生」は実は仏教用語ではなかった!

私の研究テーマは「日本思想を哲学する」です。少し長めにいえば「神道・仏教・武士道・儒教などの日本の伝統思想を根源的・原理的に理解すること」。たとえば、「恩」という言葉は日常的にも使いますが、なぜ「恩を知る・知らない」の区別があるのか、なぜ「恩を返す」ことが善なのか、原理的にはよく分かっていないのが現状ではないでしょうか。さきほど触れた大きな岩にしめ縄の例のように日本人が無自覚に従っている習俗・習慣、倫理観なども同様です。身近すぎて「つっこみ」が浅くなってしまうのです。それらを深く原理的に研究すること(さしあたり、西洋哲学・倫理学の言葉で表現できること、となりますが)、これがテーマです。

もともと私は大学で西洋哲学を学んでいたのですが、ある演習の授業で江戸時代の劇作家・近松門左衛門の心中物を扱った際、そこで表現されている、“恋する二人が来世で「一つ蓮」に生まれる(「一蓮托生」)”という考えが実は仏教に由来するものではないということを知り、日本思想史に興味を持つようになりました。「一蓮托生」は「来世も同じ蓮の上に生まれ変わって一緒になる」という意味が転じて、誰かと運命を共にするという場合に使われます。確かに仏教では人間が極楽浄土に生まれ変わって現れるのは蓮華の上とされているのですが、それには個々の業が大きく関係しているので、生まれ変わるときは必ず一人。ですから「一蓮托生」という言葉は仏教の教えのなかにはないわけです。ところが日本では、本来仏教にはない言葉を使って、男女の恋の理想型のようなものを描こうとしたわけです。それを知って不思議なことに私は「ああ、それでも“一蓮托生”という感覚は分かるな」と思ったんです。しみじみと自分のなかの日本を発見したような気分でした。けれどその感覚を説明しろといわれると、うまくできない。当たり前のように自分のなかにあるけれど、当たり前すぎてよく分かっていない自分のなかの“日本人”の部分。それを深く研究して自覚しないかぎり、いくら西洋哲学を勉強しても本当に自分のものにはならないだろうと思ったのです。

外来思想と伝統思想の葛藤のなかで日本人は何を考えてきたか

日本という国は、仏教や儒学などの外来思想を独自のやり方で受け入れてきました。たとえば仏教の場合、日本古来の神道における神と折り合いを付けるために「仏様が神様の姿をして日本を救うために来てくれたのだ」と解釈して神と仏を重ね合わせる本地垂迹説を生み出しました。そして儒学が入ってきたときには、きちんと儒学を身に付けていれば武士道も儒学にかなうんだから道徳を勉強した武士になろうという、本来、相容れないはずの武士道と儒学をうまく組み合わせる考え方が出てきます。このように常に伝統的な思想と外来の思想とをどう結合させれば日本はよりよくなるのか、ということを考えてきたのです。しかもそれをごちゃごちゃにせず、独自のまとまりを持たせることでうまく共存させています。生まれて一ヶ月で神社へお参りして、結婚式は教会で、お葬式にはお坊さんに来てもらう。これは外国から見れば非常に奇妙な現象に見えるかもしれません。しかし、日本人は長い歴史のなかでさまざまな宗教や思想をきちんと関係づけて共存させてきたのです。奇妙に見える現象も、その営みの現れのひとつと考えられます。私はそこに日本人の智恵があると思います。

「文化受容論」の授業では、近世における儒学、そして近代における西洋思想という外来思想を日本人がどのように受容したのか、そこにあった葛藤について解説していきます。外来思想と伝統思想の葛藤のなかで日本人が何を考えてきたか。そういう思想のドラマを考えることは、現代の国際交流などの分野においても活きてくるはずですし、個々の生き方にも深く関係しているのです。

学生の皆さんにはこうした講義を通して自分自身の生き方、人生観、世界観などを問い直し、さらに「幅広く意見や情報を受け入れ、自分自身で考えて判断するということ」を学んで欲しいと思います。自分で考えるということは、案外難しいものです。今までに教えられてきた価値観や流行の考えに影響されがちです。また、狭い自分にこだわってしまいます。大学時代は、その狭い自分を一度は壊してみてもいいのではないでしょうか。幅広い知識を積極的に持つことはもちろん、こんな生き方もあったんだというような「驚き」を体験すること、あるいは失敗を恐れず、さまざまなことにチャレンジすること。武士道の書『葉隠』にも「誤り一度もなき者はあぶなく候」とあります。失敗をきっかけに狭い自分を反省し、より幅広く柔軟な自分へと成長していくことの重要性、武士道はそんなことも説いているのです。

院生の時代に指導教員と学生たちと一緒に、半分研究半分遊びで吉野に桜を見に行ったときに撮ったもの
もう30年近く、机に飾ってある吉野の桜の写真。院生時代に指導教員や学生たちと一緒に、半分研究、半分遊びで、吉野に桜を見に行ったときに撮ったもの。一升瓶を抱えて桜の下で花見をした。見頃は4月半ばで、大学教員になってしまうとちょうど忙しい時期にあたり、なかなか見に行けないのが残念

新潟の国上山に復元されている良寛の草庵を訪ねたとき、近くの店で買った良寛の書(レプリカ)
これも院生時代、新潟の国上山に復元されている良寛の草庵を訪ねたとき、近くの店で買った良寛の書(レプリカ)。「わがやどを たずねてきませ あしひきの 山の紅葉を手折りがてらに」と万葉仮名で書かれている。孤独がにじむ良寛の歌も字の形も大好きで、机の脇に飾り続けている